12月

そう、セルフセラピーを試みてるわけだから。

私が何の役に立たなくても、あなたは私を愛してくれますか?書きながら指が震えるような気持ちだ。思考がフリーズして削除したくなる。「ペン1つから、友人1人、親に至るまで、何かを求めて近寄ると思ってる。それは別に、一緒に居るとなんか楽しいとか、持ちやすいとか、無料で手に入ったとか、そんな程度でいい。でも近くにあるとか、近づきたいと思うというのは、何かしら理由はある。目的と言ってもいい。それを意識的にするか無意識的にするかは当然人によって違うし、利益を求めて近づくと人から嫌がられるというのはまた別の話だ」。

どんな道にもその道の苦難がある。親越えするというのも、何かしら話しきれない悲しみや苦しみがあるものだ、と思う。「親越えして苦労してる仲間」が欲しいけど、ついでに「所帯を持てない事情がある」「一心不乱になれる仕事がない」「自己管理が苦手」という条件も上乗せして欲しい。

早熟は、晩年の幼稚性のリスクファクターだ。子どもの時に「子どもらしい」経験を積まないと、大人になってからその部分の能力が未発達で苦労することがある。他の人がこけない場所でなぜ躓くんだろう?と思う場面に出くわす。

母親はいわゆる条件付きの愛情、というものだった。父親は無条件に愛してくれていたが、どこかしら無関心の要素があった。彼らにも事情はあり、彼らは彼らに出来ることをしていた。だから、誰も悪くない。悪者はいない。「誰にも敵などいないんだ」。苦労したのは確かだ。独特の、共有できない孤独を抱えた、そして今も抱えているのも、きっと事実だと思う。君は苦労をした。彼女に求めるものがあった。してほしいことがあった。足りないものがあった。寂しかった。悪者はいなかった。誰に謝らせても虚しいばかりだ。ペンギンに空は飛べなかった。ゴミはゴミ箱、本は本棚。無能は責めない。だって新幹線の中で幼稚園児がギャン泣きして、それを叱って責めて何になるのか。誰も悪くなかった。誰も悪くなかったけど、ずっと寂しかった。ずっと。それでも次の日は来た。笑顔は大切だった。悲しくて悔しかったりするけど、テストの点数評価とそれは別に無関係だった。大人になっても説明できない寂しさがあった。役に立たなくなければ、何かの条件を満たさなければ、立派な何者かでなければ、大切な誰かは俺のことを好きでなくなる。俺も誰かに何かを求めるように、相手も俺に何かを求めている。条件を満たさなくなったら、俺は誰かを失う?

自分が誰かを愛する経験を経て、少しずつ理解している。好きになるものは、残酷といっても笑えるほど、所詮自分には選べない。個体として不足している何かを補填してくれるなにかに、致命的に魅了され、感情のコントロール権を失い、成すがままに恋に落ちる。それがスポーツであれ異性であれ文房具であれ、「好きになる」とはそういうことだ。

綺麗だなと思う絵、ふと繰り返し見たくなる写真、出会うと笑顔で挨拶をするのが苦じゃない同僚。恋せよ乙女、人生は短い。

君は寂しい。誰も悪くない。せめて悪者がいて、そいつを責められたらまだ気が楽になるだろうに。君は悪くない。そして同時に、もう成長しなくちゃいけない。しがみついていればジリ貧になる。君が悪くない様に、彼らも悪くないのだから、もう、誰にも落ち度はない。君に「事情」があるから、少し手を抜いていい理由にもならない。少し甘えてもいいわけはない。ちょっと優遇してもらえるわけはない。やることは、やってもらわないと。

そして、ここまでたどり着いた過去の全てのあなたを忘れないで。感謝するかどうかは任せるけど、まあ感謝したくなるでしょう。忘れないで、絶対に。食いしばって、誰も悪くないからこそ、やり場のない悲しみや孤独を抱えて、押しつぶされそうになって、泣いてもその理由も説明できなくて、同級生にも親にも兄弟にも言えない状況で、それでもテストはやってきて、その中でも戦い続けて、くじけそうになって、立ち上がってまた戦って。そうして戦い抜いてきた中で、今がある。今の君が戦う時に使う武器は、過去の歴戦のあなたによって得られてきたものだ。それを忘れてしまう。人はとても簡単にそれを忘れてしまう。でも必ずたまに思い出して。必ず思い出して。床に臥せる時、いろんな人の顔を思い出すと思う。でもそれとは別格の何かとして、過去の自分を思い出す。あなたはそう思える人生を歩んできてる。それを忘れないで。戦いの場に身を置き続けて、傷つきながら戦い続けている戦士である過去のあなたを忘れないで。

そしてどうか笑って。健康で、笑顔でありますように。

8月

 またすっぽ抜けたかと思ったが、7月は書いていた。良かった良かった。オンラインメモに小まめにメモをするようになってから、また音声録音でアウトプットの場を持てるようになってから、以前ほどここに張り付かなくなった。ただ、オンライン、①月に1回の文章、白紙から書き出す、という手法でないと整理されない心もある。この場所はこれからも訪れたい。

 さて、随分と暑い日々が続いている。ずっしりとした課題に取り組む時間が多いので、日の下に出る時間は短いものの、週末や夜に外を歩くと、日差しが痛いとか、不快指数は湿度と温度の掛け算とか、慣用句的に耳にする言葉が、まさにその通りだなと感じる。

 余裕がないとはいえ、せっかくだから夏らしいイベントを1つぐらいは体験したいもの。今年は幸い人に誘われて、花火を見に行ってきた。新幹線を使って1時間半かけて移動して、彼らが確保してくれた場所に100均のレジャーシートを敷いて、台風の後の空に、次々と花火が上がるのを眺めた。光と時差で届く音。爆発音が体に響く。コンサートホールでライブを聞くときや、低音がしっかり出るスピーカーでジャズを聴くときに感じる「イヤホンでは感じられない音体験」を実感する。ああ、本当にきれいだな、一緒に見たい人と一緒に見られて、幸福なイベントだな、と感傷的になった。

 今度の恋人は、今までで一番しっかりしている。立派な仕事をしっかりやっていて、健康的な人付きあいの幅も広い。シンプルに優秀な人材だなと思う。さらに今回は相手に好かれて始まった。自分の中にない致命的な何かを、俺に見出したのだろう。彼は素晴らしい男だから、俺の横でもっと素敵になって、それこそ俺を追い抜いてしまうだろう。でももう、こうなっちゃったから、俺に出来ることは、ただただ、これまでの経験のすべてをもって、愛を注ぎ続けるだけだ。

 半年以上ゆっくり進めてきた報告書の束、もとい山が、1つ節目を迎えた。まだ完遂してないのだが、折り返しは優に超えたと言っていいのではないだろうか。引き続き、山の砂をかきだすように、ゆっくりと削っていく。

 それにしても、飲み会の予定1つ増やす気が起きない日々だ。職場の人間と脱出ゲームなんて、半ば強制的に誘われなければいくわけがない。でも行けば楽しい。本当、課題の進捗は、自分のペースで管理したいものだが、なぜこんなに難しいんだろうな?まあ、この文章を書いてるのが、日付を超える前の時間帯ということは、少しは成長したということなんだろう。何せ、自分の最優先事項がそれらなのだから、それが片付いてないのに新しいイベントを増やそうと思えないのだ。

 先日、とても素敵な言葉を頂いた。健康であれば前向きに進めますし、笑顔で明るければ周りは安心できます。あなた方はまだまだこれからです。何回読んでも、何度読んでも、少しずつじわじわと沁みる言葉だ。迷ったらここに帰ってくればいいと思える、本当に素敵な言葉だと思う。自分が、誰か愛する、たとえ自分が側にいられない状況になっても、それでも愛おしいと思ってしまう何かに求めることは、きっとその通りだ。健康でありますように、ちょっとご機嫌でありますように。そしてそれが、自分の事を心から愛する誰かが俺に期待することだし、自分自身にかけたい言葉だ。あなたが健康で、少し楽しそうなら、どれほど惨めでもいい。あなたが大好きよ。

7月

 新しいことを5月から始めた影響なのか、5月6月の記事が抜けてしまった。

 4月下旬に5年来の友人と旅行へ行った。国内の世界遺産をいろいろめぐっていたが、これでひと段落、という趣旨だったので、ある種感慨深かった。

 その旅行の最中に、一緒に新しいことを始めようという話になり、最低限のものを準備して5月初週には開始した。まだ2か月しか経過してないが、それなりに慣れたなという感覚だ。それはアウトプット形式で、オンラインで発信するものだ。それを始めてから、EvernoteやNotionを使って思考を整理する作業が加速した。楽しい要素が多い。なぜこのブログを2か月書くことを忘れていたか、不思議ではないほどだ。始めて間もないのにこんなことを言うのは白けるかもしれないが、恐らく1年程度で、ある程度やりつくした感に達するのではないだろうかと思う。更新頻度が下がるか、もしくはやめてしまうかもしれない。その辺は謎だ。だがなんにせよ、走り切ることは大切なことだ。1、やりたいと思っていたことを実現化出来たこと 2それを大事な友人とともに出来ていること 3初めてアクションしてくれた人が優しい人だったこと 4同い年の人物が、人生で初めてのメッセージとのことで、「感謝と応援を伝えねば」という使命感から連絡をくださったこと 5とある人物に対する名前のつけ難い感情について、それなりにまとまって話すことができたこと。もうすでに、恩恵は受けた。

 6月からは部署が変わった。あっという間に1か月がすぎ、恐らく今月も瞬く間に終わっていく事だろうと思う。報告書の執筆案件を経験するために勤務であり、もうその候補は十分に経験した。ということで、私はその報告書を早速書くべきである。しかし、もっと優先すべき報告書がまだ完遂していないため、それを優先することにする。

 去年の7月の記事を見ると、テストを受け終わった、その合否発表はまだだ、と記載されている。とても長い時間が経過したように思っていたが、あのテストは、まだ去年の話だったんだな。そうか・・・。なんだ、毎年、それなりそれなりに、頑張ってるじゃないか。あのテストは合格した。結果としては、少なくとも危なげなく合格しており、胸をなでおろした。

 5月は、定期的な運動を始めた時期でもある。食事の記録を取っているが、まあ、よく分かるのだが、例えば今日で言えば、洋菓子が完全アウトの原因だった。洋菓子、菓子パン、やっぱやばいねえ・・・。筋トレYouTuberの動画を見ていると、資質10g以上の食べ物は黄色信号ですよと言っていたが、たしかに、ヤバすぎる笑。・・・うわ、今日食べたやつみたら、脂質40g・・・。これは・・・そりゃあフォローできないぐらいヤバいわ。

 今月は、とりあえずもう報告書を書くための経験は出来たので、丁寧に業務をして、笑いが生まれるように仕事をすること、そして、毎日少しずつ、60点をエブリデイ、をモットーに、課題をこなしていきましょう。

 

4月

 新しい体験とか、人を変える経験として、人・本・旅行というのはよく聞く。自分の中にないものを経験する、ということだ。

 知らないことを知る、新しい環境に飛び込む、慣れない土地へ行く。自分は学生の頃から、旅行が比較的好きだったと思う。なぜか?

可能性①

 普段生活している環境に飽きていた。そのため、いつもと違うものは新鮮で面白かった。毎日実家で米とみそ汁を食べていたら、たまに食べる菓子パンがめっちゃ美味しく感じた、みたいな。

 大学生の頃、それが顕著だったように思う。生まれてから大学生まで、ずっと同じ土地で育った。この土地は好き、とても好き。でも毎日カレーを食わされたら、オムライスも食べてみたくなるでしょ?友人と出かける、ドライブや電車での旅行、1人で行く海外。「違う」ことそのものが楽しかった。ワンピースしか読んでこなかった子に、NARUTOHUNTER×HUNTERのだめカンタービレNANAを次々に渡すようなものだ。「NARUTOはワンピースより面白いかどうか」はさておき、いろいろ違う漫画面白い!というやつだ。

可能性②

 旅行が好きな俺、かっこいい、という自己陶酔。旅行はちょっと大人なイメージがあった。そして、自分にないものを経験する、というのは、慣れていない状況にさらされる、という意味も持つ。緊張感もあるし、警戒センサーの感度と範囲を広げざるを得ないので、疲労もするしストレスもかかる。つまり、難易度は高めである。そんな旅行に行けちゃう、あげく楽しめちゃう、好きとか言っちゃう俺。デキる・・・。みたいな感じか。もちろんこんな明確に言語化していなかったが、憧れと自己投影は表裏一体である。

 

 まあ多分上記のような理由で、旅行は好きだ。気を抜くと「1曲リピート再生」みたいな日々になりがちな我が日常、隙を見つけたら旅行に行きたくなる。しかし行先の候補に乏しい。沖縄、離島、ハワイ、グアムなどのリゾート系に昔から興味がない。しばらく行ってない気がするから、今なら違うのだろうか。行ってのんびりして海入って日焼けして最高に楽しくてだから何?と思ってしまう。滅茶苦茶である。最高に楽しいだけなら5000円kindleにつっこんで漫画一気読みしてる時も楽しいだろ、と無茶苦茶な考えが湧く。リラックスしてリゾートを楽しめない僻みである。本当はもちろんみんなと一緒に遊びたい。

 そんな自分でも行ってみようと思ったのが、世界遺産シリーズである。日本には大体20か所ぐらいの世界遺産がある。西日本のものは学生の頃にある程度回っていたので、今度は東日本、ということで、この5年ぐらい、国内旅行の行先は世界遺産シリーズから選択していた。そして先日、それが一区切りした。

 ちょっと感慨深いものである。最初に後輩を誘って向かった日光東照宮に始まり、思い出を振り返って感傷に浸る。社会人になりたての頃からの習慣なので、当時の仕事の苦労とともに思い出される。

 次の国内旅行はどこへ行こうか。興味があるのは、温泉色々行ったら違いはわかるのか?5つ星ホテルとやらは泊まると感動するのか?地方の高級旅館は気に入るのか?地方の美術館行ってみたくない?などである。

3月

 今年度も終わり間近。1年間が経過しようとしている。職場が変わって、転職してから1年。よくぞ耐え抜いた、生き抜いた。よく頑張ったしよく頑張っている。背中をさすってやりたい。今の時点で確かに言えることは、まずは1年間お疲れ。よくぞ頑張ってくれたよ。ありがとう。本当にありがとう。

 飛び込んだ環境は、想像よりもタフネスだった。夏の試験に向けて、業務を覚えながら、並行する課題に取り組みながら、試験勉強をした。試験制度が変わったばかりな上に、職場で同じ年次の人間は限られていた。どこまで対策すればいいか分からない試験勉強。職場での評価のために、一定のクオリティは保たなければならない日常業務。ADHDだか発達障害だかASDだかHSPだか、どの名前をどれだけつけてもらっても構わないが、マルチタスク進捗管理はchallengingだ。

 試験にはちゃんと合格した。問題にならない程度にはきちんと日常業務もこなした。学会発表もなんとか走りぬいた。同研究の延長も取り組み続けている。そりゃあいくらでももっと優秀な人材はいるし、もっと早くもっと沢山タスクをこなしている後輩も先輩もいる。でもさ、それ関係ない話だから。ほんと、よく頑張ったよ。ありがとう。本当にありがとう。

 「思えばこの1年、職場では99%敬語でしゃべってるよね」と、先日同期の仲間と話していて気が付いた。新入社員みたいなものだろうか。そりゃあ疲れるだろう。

 ちょっとサイコパス気味か、一種の発達障害じゃなかろうかと思わせる優秀な後輩は、自分が先輩になることに強い不安を覚えているらしく、同期の女の子におびただしい数のLINEを送っているらしい。特に苦も無く日々をストレスなく過ごしているように見える彼も、案外ストレスフリーではないのかもしれない。むしろ、強い心配や不安に対処するために、人一倍の準備を自分に強いているのかもしれない。上司や男友達との人間関係には誠実だが、女性関係となると誠実とは言い難い男だ。異性関係のふるまいには、育った家庭環境での愛情経験と、そこから現在に至る自己肯定感が反映されると私は思っている。

 こっからの1年も、大切な1年なのだ。もう一段階取りたい資格試験、そのためのレポート作成。そしてこの1年やってきたプロジェクトの仕上げが含有される。もしもこの2つを仕上げることが出来たら、自分の人生にとって大いなる一歩になると思う。そしてある種、「仕事を熱心にやる」というすごろくにおいて、1回あがりと呼べる地点だと思っている。

 Evernoteを思考のセーブデータとして使いながら、ちょっとずつレベルアップしていると思う。最近は、「自信」に関する考え、解釈、理屈は整理し終えた。70点には達したと思うから、いったん別のテーマに移る。次は「幸福」と「自己肯定感」だ。

 3月のライオン、ブルージャイアント。一度「そこ」を目指してしまったら、あとはただ、毎日こつこつと積み上げて行くしかないのだ・・・。その生き様。自分の人生でも、1回ぐらい、花火みたいな短さでいいから、ばしゅっと輝いてみたい。その憧れは例えるなら、「1回ぐらい回らない寿司が食べてみたい」みたいな、無邪気で無心なわくわくから生まれたものだと思うのだ。

 1年間、よく頑張ってくれた。ありがとう。もちろん助けて下さった色んな方々に感謝の念が尽きない1年なのだけど、でもやっぱり、一番感謝すべきはあなたでしょう。よく頑張った、俺。本当にありがとう。

2月

 随分寒くなった。これが今年のピークだろう。

 指導者が変更になった。変更していただいた。彼が催した報告会での彼の様子をみて、更に上の上司が異変を覚えた。若手にヒアリングをして下さり、変える話になった。大ボスにお願いと報告に伺った。変更になった。よかったね。動揺する気持ちはある。毅然と自分のすべきことを行う。完成した学会資料は、それなりに整ったものだと思う。

 「君が自信を失う必要は全くない。」「あなたに非はないように見えました」。気分や心情が揺らぐときはまず体調を整える。7時間の睡眠時間、腹8分目の食事量、1日8000歩程度の運動量。鬱屈していた気持ちが、ぼやきながら歩いている内にほぐれて霧散して、眠気とそんなことより今すぐ取り掛かりたいことを思い出すなんてことはしょっちゅうだ。

 ノートパソコンを買い替えた。何年振りぐらいなのかは分からないが、非常に快適だし、使いやすいし、満足である。研究費での購入のため、身銭も切っていない。財布が痛まなくて嬉しいというよりは、そう、学問を志す身なのだ、という気持ち新たの方が大きいだろうか。

 年上の友人ががんを罹患した。話を聞いている限りは来年、再来年に命を落としていることはないだろうが、5年10年と言われれば分からない。しかし元より、社会人になった大人同士の交流など、5年10年続いているかどうかなど誰に分かるだろうか。いやしかし、結果的に「ああ、そういえば」というほど忘れていることと、どんな手段を使っても挨拶も会話もできない、という状態を押し付けられることには、違いがあるだろうな。

 彼は立場が上の人間には礼節の限りを尽くすが、同等ましてや下の立場の人間に対しては存分に横柄な態度をとる。「言っていることが正しいなら言い方がキツいのはスルーできる」。

 こんな私に誰が仕事をくれるだろう、と意味不明なことを思ったりする。そんなもの、今担当している案件の出来次第である。次の仕事をもらうまでが仕事である、というのが真理だ。楽しく過ごしたいものだな。

 収集心が自分の特性の1位という結果だった時、「ああー(わかる)」という気持ちと「ああー??(ピンとこない)」という気持ちの両方だった。思い当たる節がなくはない。確かに、情報を全部集めて全体像を把握してから道筋やストーリーを作りたい傾向はあるかもしれない。さておき。最近やっと、現在の仕事に関する勉学の面白いポイントを見つけられた。過去の先輩の資料が今ならやっと面白く思える。読ませて頂こう。

 今の職場についてからの1年間、7割以上の時間を今回の一件に悩まされてきたが、ま何だことは、礼節を日頃から保つことがいかに大切か(いざというときにどちらかといえば味方をして頂けるかどうかは大きい)、そして自分を助けて下さる方の方を向いて感謝して、自分は自分のすべきことを果たしていかねばならないということだ。

 

ーメモー

 「最近の人は感情を軽視していると思う」「感情を表出することと知性を別にわけて考えるのは違うと思う」と友人が話していた。人間は結局のところ?感情の生き物だから、相手を操作したいなら相手の現在の感情と、どのようなことにどちらの向きへ反応するのかを推測しなければならない。相手を怒りと不機嫌で操作しようとするのは、感情を表出することの多寡よりも、自己管理が出来ない幼稚さと取られるだろう。 

1月

 仕事にまつわる苦労はつきない。当然なのかもしれないが、自分が習得しているスキル、そして習得していないスキルの有無がはっきりするし、なぜはっきりするのかというと、そのスキルを持っていないと状況が悪くなり体感的に困ったことになるからだ。

 すぐ仕事に手を付ける、まずは間髪入れず数分着手してみる。能力や意志の力ではなく、仕組みで解決しよう。余計なことが頭に浮かんで気分が落ちたり足がとまるまえに動き出してしまう、そのぐらいのノリで動けるぐらいまで初動のステップを落とすことが肝要である。

 「仕事は楽しいかね?」という本がある。最初に読んだのはいつだろう、まだ大学生だったような気がする。「試してみることは面白いことである」という気づきを与えるための本、という印象だ。なんでもやってみる、試してみる、トライすることを面白がる、そういう心持ちを教示してくれたイメージだ。

 本当は今頃もっと立派になっているはずだったのに、同期入職の彼らより勝らずともせめて同じぐらいのスピード感で成果を残せたらどんなに心軽く毎日を送ることができるだろう。優秀な後輩に追いつかれ追い抜かされるようなこの感覚にさいなまれる日々に、どうしてなってしまったのだろう、どこで間違ったのだろう。友人がそんな思考回路をしていたら、そんなこといいから、本当にしたいことは何なのか、理由はどうあれ何を達成したいと思ってるのか、今のお前(ごとき)で想像できるゴールと逆算した計画で当面の目標は何で、そのゴールの1/100ぐらいに砕いた手順でいうと何から手を付けたらいいのか、それをいつどこでどんな状況で開始する予定なのか言ってみろ、となるだろう。

 「反応しない練習」という本を読んだ。自分の中にあるネガティブな感情やそれを生じる理屈の多くが妄想であるということ。反応しない、ということが肝心であるという本。繰り返し読むだろう。

 樺沢しおんという精神科Dr。書籍やYouTube。幸福の分類(段階?)として、セロトニンオキシトシンドーパミン

 随分寒くなってきたな。1月下旬だもの、当たり前か。今年はユニクロで買ったセーターをいたく気に入っていて、取りつかれたように着続けている。深い緑色のセーターがしっくりと似合う30代にちょっと憧れていた。仕事とそれに関連することに意識が常にとられているから、洋服は本当に同じものばかり着ている。

 生まれる家庭を選べないように、死ぬ日も選べない、個体の命とはそんなものだと思う。FIRE、数十年での長期投資プラン。「終わった人」の後書きに記されていた、「社会人時代の華やかさや活躍は人それぞれだが、意外と定年を終えて社会的に終わった人になった後の日々はどれも似たようなものである」という言葉に救いを得たというか、方の緊張が少しほぐれたような感覚。将来のことを考えると今やっとかないといけないこと。健康とは悪事を働かなければ保証されるようなものではない。自分の行動で自業自得は予防できても、自然のもたらす暴力的なカード配りの前に一個体は無力である。だから、「反応しない」ことが、心穏やかに、目の前にあるものに感謝と敬意を持てる方法なのかもしれないな。