おしゃれ

おしゃれに弱い。人からの印象。かっこいいと思われたい。東京。インスタ映え。かっこよくありたい。自分の好みではなく大衆からの評価を気にすること。

自分の好きなものだけでいくとだらしない体形でとても限られた人との関係の中で生きて、出世もしない、人前にも立たない、狭い世界でこじんまりと生きていく。行き詰ってしまう。そんな風になってしまいそうな危機感。クラスのさえないオタク系のひとたちには同族感を感じる。彼らから勤勉さを奪ったのが自分、そんな自己認識。

おしゃれであってほしい、しかし実用性は絶対譲れない。日々の細やかな管理を要するようなことは無理。そこまで服や持ち物に興味はない。だからこれなら85点、という持ち物のみに固めておく必要がある。

俺が一番かっこよく見える服装は何だ?基本的にはそれだけ5パターンぐらいあればいい。

おしゃれではない、かっこよくないものは捨てるということが大切。

睡眠

1か月に1つは記事を書きたいと思っている。願わくばひとつのテーマについて1月かけて加筆修正、推敲を重ねて良質な文章が書けたらと思う。

睡眠、すきあらば目を閉じて眠ること、というのは最近の最優先目標だ。もともと鼻炎がひどく扁桃腺も非常に大きかった。鼻呼吸なんてまともにできたことがないし、体型のせいもあっていびきも昔から酷かった。卒業旅行や部活の遠征で一緒に寝ている友人にいびきで迷惑をかけたこともあるし、無呼吸ぽかったよと言われたことも何度もある。恋人には頭が上がらない。

日中の眠気も強いし、なんとなくイライラしたりぼーっとして食べ過ぎたり気力がなくて後回しばかりしたりで、納得のいかないことが多かった。大学生の時に鼻の手術を受けた。症状は3割減といったところだったが、なくならなかった。

先月扁桃腺の手術をうけた。その際に鼻も焼いてもらった。いま人生で一番鼻呼吸が出来ている。いびきもかなりなくなったらしい。それでも朝は眠いし昼もねむい。ということで、やっと言い訳がなくなった。俺は睡眠時間がそもそも短すぎるようだ。

瞑想を取り入れたいと思っていたが、それすらもできない。俺にできるのは、とにかく隙あらば寝ることだと思う。うとうとして夢うつつな気分は幸せだし、頭が整理される感覚もある。

ベッドカバーを洗濯したらこんな爽やかな気持ちになるものかと驚いた。まくらも洗いたいと思っている。

西川エアーのベッドマットを使用しているが、これはいいものだな。布団は実家からずっと使っている羽毛布団が一番好きだ。

宇多田ヒカル

宇多田ヒカルが好きだ。特に初期の曲にはつらいところを助けてもらったし、今でも助けてもらう。in my roomとか。For youとか。暗い曲と言われたりするけど、え、そうかな、って思う。これって暗いの?

 

宇多田ヒカルの母親は藤圭子だ。藤圭子躁うつ病だったそうで、躁状態のときは娘をとても愛して可愛がり、うつ状態の時はかなり心に刺さる言葉を浴びせたそうだ。子ども時代に親から愛情を受け取れたか、そしてどういった形で親からの愛情を受けたか、というのは必ず影響する。

思えばうちはこれに近しいと思う。条件を満たせば母親は自分をほめてくれた。満たさなければとてもがっかりした。きっと、祖母は母に対して、もっとその傾向が強かったのだろうと彼女の話の端々から推測している。

 

すっきりした、ふっきれたは勘違い、というフレーズはネギま!という漫画で印象に残っている。好きな言葉だ。それはそれとして、体か心のどこかに引きずるなり含むなりしたまま人生を進んでいく。その様子はなぜこんなにも見る人の心を勇気づけ、日常の甘えを回顧して恥ずかしさから襟をたださせ、なによりも強さを感じさせるのだろうか。

 

宇多田ヒカルは人間的活動を、といってしばらく音楽活動を休止した。愛する、そしてまた自分を愛してくれる人を見つけ、子を授かり、また音楽活動を再開している。10代や20代前半に彼女が作った曲と今の曲には違いがある。

出さない手紙

好きになるとはこういうことなんだな。あなたでなくちゃだめなんだ。閑静な飲み屋街を歩くのも、少し洒落た店で隣に座るのも、昼間に住宅街の中の紅葉を見上げるのも。好きなあなたとでなくちゃ、もっと綺麗には見えないのだ。

そしてそれと同時に、今そばにいてくれる人に感謝の気持ちを持とうという心がけが、より強くなりました。それでも今私のそばに居てくれる人がいる。私はそのことに頭を下げるべきだと思う。

感謝はもっとも美しい感情の一つだと思う。どれほどあっても、汚くもならないし、誰かを傷つけたり寂しい思いをさせることのない、高尚な感情だと思う。

神様、本当におられるのですか。いなくとも、私はこの世の中に感謝したい。あなたに頭を下げて祈りたい。大学の友人に会いに新幹線に乗って、たった半日でこんなにも生きる喜びを思い出させてくれてありがとう。何の取り柄もない私を後輩がどうしても飯にいきたいと何度もスケジュール調整してくれる。神にあいされたかのようなハイスペックな上司がなぜかお前に会えてよかった本当にお前はとんでもないやつだなとプライベートの時間をくださる。これほどの身に余る幸せを、私はどれほどの責務をはたせばいいでしょうか。

結局、あなたとの関係は、おはようおやすみをLINEで言いたいとか、毎週どうしても会いたいとか、大学の同級生から「高校生ならわかるけど、20代後半でそう言ってるのは少なくとも少数派だと思うよ」なんていうことで、あなたに愛されていないとわたしは一人暴走して独り相撲して、勝手に寂しくなって悲しくなって。あなたにそれを婉曲的な形でぶつけて。あなたは思いもよらない方向からなぐられて、これ以上やっていけないとなってしまった。

もちろん、そんなことになる前から、あなたにもいろんな問題があった。あなたは気が付いていないけど、結構傲慢だ。臆病がゆえに相手を傷つけている。そしてそれに気が付いていない。自分に都合のわるいことを言われるとデリカシーがないと言う。大人としてはあまりに情けない姿だと思う。

でも繊細でおちついたものに親しみを覚え、そこで穏やかな時間を過ごすことを望み、植物をいつくしみ、たべものを丁寧に用意し、日常の些細なものをみのがさない。あなたのその生きかたを本当に尊敬した。

あなたは多分SNSにあんなに労力や時間を割くべきではないと思う。一番すべき仕事がめちゃくちゃになってしまったし、直接的な人間関係について考えないのもそのせいだと思う。イイネがたくさんついても、あなたが人と接するときに不愉快かどうかは、関係ないんだよ。しなくちゃいけないことを後回しにして、楽しい事ばっかりやってる人と同じ。ただそれが、テレビゲームやスマホではなく、海外旅行の写真や料理であるというだけで。

私があなたについて整理できるのはまだ先だと思う。時間をかければ出来ることだと思うけど終わりは見えない。それを抱えながら私は新しい人と会うし、誰かに好かれることもあるし、誰かを好きにもなる。

警戒心がつよくなったのか余裕が出来たのか、あやまりたいほど、あなたと交際していたころより落ち着いて人との好意をみつめられるようになりました。1回や2回の感情変化などよめないから、とにかく繰り返し会っていくしかないということ。ほれ込むほど好きになったりするかどうかは、もう本人たちにも操作できるようなものではないし、なにが惚れ込むほどのポイントになるかも、本人たちにさえ分からないということ。

あやまりたいほど、あなたと出会って私はかわった。もう、あはようやおやすみのLINEがないことで恋人をこまらせるようなことはそうそうないと思う。相手の愛を信じるということも、相手の好意をおしはかることも、時間をかけていくしかないということ。

 

本当にありがとう。そしてごめん。そして名残惜しいしまだあなたが恋しい。理由がわかっているような、間違っているような、そしてそれがわかってもあなたをそれでも好きだと思う。でもあなたなしの日々を、それはそれとして楽しくすごせるぐらいにはなりました。人の心とはこんなにも変わっていくのだなと情けなく愛おしい。

狭い世界だから、偶然再会する可能性は十分あると思う。きっと気まずくて、言葉をかわすこともなく、楽しい時間は共に過ごせないと思う。それでも私はあなたが好きだと思う。そしてあなたと同じように、あなたでない誰かをもっと好きになると思う。

あなたに会えてよかった。余裕がなくて、自信がなくて、あなたの愛を信じられずごめんね。あなたに出会って私は変わった。変わるきっかけをありがとう。あなたは本当に魅力的で素敵な人だと思う。

中高時代の旧友と

こんな時間を過ごすことが出来るのなら、ここまで生きてきた甲斐もあるというものだ、と思った。私は30年に満たない時間しか生きていない。しかし私にとってはこれまでが人生というものだ。振り返れば思い出せないくらいのイベントは既に培ってきた。思い出す想い出は、バイアスや先入観?が入っている。

大切なものは片手に余る。どうやったって、物理的に人の持つエネルギーには限りがある。大切にできるものには限りがある。数を増やすのであれば個々は浅くなるし、ここを深くしたいのであれば数を減らすしかない。

それは何にでも言えることだ。部屋の物の数もそうだし、人間関係の友人の数もそう。

人間関係。薄く浅く広げることは、大切なことだ。力の70%を大切な人に深く注いで、30%を残り膨大な人々と新たな人々に注ぐ。それは大切なことだと思う。何が深くなるか分からないからだ。きっとなんにでも言えることだが、新しいことに触れる習慣は大切だ。100個新しいものに触れたとして、99個はどうとでもいいものだが、1つは出会いの機会があってこんなに幸福なことはない、と思うものかもしれない。

しかしそれを知らなければ自分の中でほかの何かがその立場にあるはずだ。それを知らなかったからと言って幸福にケチがつくわけではない。

それを知りたいのは、知らないものがどこかにそんざいしているかもしれないという恐れ、自分の知らない「よいもの」があるかもしれなくて、それを他人が享受しているかもしれないという嫉妬のようなものかもしれない。

 

30年未満生きるだけで、絡みつくものは既に膨大だ。どうだ。生きやすい日々を送っているか?もう少し生きやすくなってほしいなあと思ったりします。もう少し心穏やかにと願ってしまいます。まだ君は20代だ。落ち着いて生きるには早い。せいぜい焦って困ってもがきたまえ。でも20代はとても貴重な時期と聞きます。楽しんで生きていたいです。それに、私が30歳になるまでにあらゆる方法で死んでしまう可能性だってあります。私は30歳や40歳になった時に、後ろを振り返って良かった良かったというために、彼らの過去を美しくするために生きているわけではありません。しかし君はきっと95%ぐらいの確率で30歳まで生存する。君が言うのは5%の確率の話だ。生命保険でよくわかっただろう。

 

旧友と、近況を話して、最後に会った時からの変化を報告して、今困っていること悩んでいることを話して、それについての考え方や解決策を提示してもらって。私も彼の話を聞いて意見を返して。同い年でかつてあれほど大切な時期を過ごした旧友が、今は異なる状況で全く違う経験をしていて。それに畏怖の念を感じて讃えて尊敬して。それでもなぜか時を共有するのが嬉しくて嬉しくて。好きに理由がないように、幸福にも理由はないのかもしれない。なぜこれほどに生きていて良かったと思うのか、この湧き上がる幸せは一体なんと説明できるのか、今の私では論理的に説明できない。ただ今は溢れる感謝の思いに頭を下げる。

料理

理由はどうあれ、料理をまたしてみたいと思って、というか自分で食事を準備するということがしたくて、同僚に頼んで家で宅飲みをした。サラダを作る、ということがやってみたくて、ネットで調べてサラダを作った。にんにくを炒めたものやアンチョビがとてもおいしいことを知った。

お客さんと話をする機会があった。スーパーに行くのがすき。自分が食べたいものを作れるのが良い。病気になってコンビニで買ったりするようになった。それで分かったのは、結構コンビニのご飯もおいしいということ。

そう、手間をかけたり値段でいうなら、コンビニでも外食でも今は問題ない。レパートリーは限られるけれど。違うのは、食事を自分で用意するというその手間そのものだ。食事は大切なことで、食事そのものにどうやったら価値を感じられるかというと、手間をかけるしかない。人間は、苦労をともなったものは価値の大きいものであると認識するようにできている。手間暇かけて作ると、素敵なものでおいしく感じるようになっているのだ。

包丁を握ってみじん切りをするのは切なく、そして幸せだった。作った料理はどれも少しずつ味が濃くて、しょっぱかった。でも美味しかった。

自分が認めるか認めないかなど

そして他人に認められるか認められないかなど、それにあまり振り回されてはいけない。

SNSのイイね、コメント、出会い系アプリのレベル、承認や人気度合いのパラメーターにはなるが、何を評価されているかはまた別の話だ。

俺が評価してもらいたいのは何だ?考え方、価値観、人生観、自分の哲学だ。それはSNSの写真で満たされるか?いいや。

他人の価値観を否定することが俺にできるか?出来るわけないだろ馬鹿なのか。一生駄目だ。でも忌み嫌うものはあるし嫌いなものはある。それはそれ。でもそれは口に出してはならない。

お前の価値観や人生観、自己哲学に賛成してくれたり認めてくれる貴重な人は誰だ?友人だ。いつの友人だ?それぞれの時代の友人だ。その数は数えたくもないし5人以上ある時点で多すぎるぐらいだ。

普段の生活では認められないか?そうかもしれないな。仕事仲間なわけだしな。仕事の話ばかりしているし、もっと目先の現実的な話をしているしな。でも日々会話しているよな。丁寧に会話しているか?言葉を交わすというのは酒の場とかじゃなくてもめちゃくちゃ貴重な機会だぞ?相手が何を大切にしているか耳を傾けているか?相手が今何に興味を持っているか関心をもっているか?何気ない会話の中に感動があるか?

考えや価値観の承認はなかなか明らかにならない。でも過去に認めてくれた友人がいる今もその友人と話ができる。

行動だよ。すべきことは。何を目標としていて。そのために何をしているんだ?