自信と結果の関係性

「一体俺は何に怯えていたんだろうと思う」というのは、先々代の部活の部長から任期を終えた直後に聞いたものだった。旧体制に様々な不満があって、自分が部長になったら色んな事柄を一新しよう、俺がこのグループを変えようと思うものだ。しかしいざ自分がその椅子に座ると、維持するだけでも相当なエネルギー量がかかることが分かる。そして批判というものが四方八方から飛んでくることを体感する。組織の構成員は無責任に感情的に意見をあたかも建設的な意見かのように声高に述べるものだ。

 

批判は怖い。しかし怖がる必要がないことが多い。何をしたって不満とやらは出てくるのだ。右に行っても左に行っても、立っても座っても批判される。一番批判が出にくいのは「前例通り」だ。しかしそれでは面白くもなければ、良くも悪くもならない。同じだ。同じなのだ。その場で足踏みを続けるよりは、どこかに歩を進めた方が、面白い。動けなかったのは、なにか正当な理由があったからではない。自分が想像上で作った批判を恐れていたからだ。しかしそれはあまり気にすべきことではない。

 

人はどんな環境でも幸福だと感じられる。同様にどんな環境でも不幸に感じられる。感情とはそういったものだと思う。

 

自分の現状に関わらず自信というものは持てるだろうか。努力をしていないことを分かっている、結果が伴っていないことを知っている、他人からの評判が追いついていないことを感じている。それでも人は自信を持てるだろうか。

 

自信とは文字通り自分を信じることだ。十分だと認識する努力の遂行、そして期待から大きく外れない結果が得られて、自信は湧くのだろう。そこに他人からの評価がもらえることは珍しいだろうが、新しいことをすること、どこかに進もうとするというのはそういうことだ。しかし歩を進めることはどうしようもなくわくわくし、楽しいものなのだ。