生きる意味

以前に中島義道さんの「働くことが嫌な人のための本」という本を読んだ。大学2年生かそこいらの時だろう。ひどく共感した覚えがある。それから4年か5年後の今、退屈と腹立ちまぎれに立ち寄った書店で中島義道さんの「人生に生きる価値なんてない」という本を見つけた。

 

よく生きがいとか生きる意味とかそういった話が挙がるが、そういったものはないと私は思っている。生きる意味について考える意味は、いかに幸福感を安定して保ちながら、アイデンティティを動揺させずに過ごしていけるかの対策法を考えることにあるのだろう。

 

人間は動物だ。まずはそれが前提である。

犬の生きる意味とは何だろうか。猿の生きる意味とは。鳩の生きる意味とは。カブトムシの生きる意味とは。生命の保持に必要な食料を探し、入手し、摂取する。他の生物から暴力的に生命を奪われないよう保身する。大部分はこれらに収まると思う。

 

人間には選択肢の数が多すぎると選択が出来なくなるという心理効果があるらしい。実体験でも思い起こされることがある。ドラッグストアに行き、洗剤を買おうとする。2,3種類ならどれにしようかな、という気分になるが、14,5種類おいてあると、最早どうでもよくなり歯ブラシコーナーにでも逃げたくなる。(似たような事例で私はまだ東京に慣れない。選択肢が多すぎて酷く疲れてしまうのだ。昼ご飯をコンビニで買うか、牛丼チェーンに入るか、お洒落にカフェか、コーヒーでサンドウィッチか、ゆっくりファミレスか、たまには話題のラーメン屋、ちょっと変わった担々麺、本格的な中華、全く選べなくなってしまう。)

 

外をうろついていると特定の生き物に襲われて殺される、という可能性は人間の場合少ない。というか2015年の日本では少ない。そのため生きる、生活するという事柄の内容の自由度はとても高い。私たちは自由に生きることが出来るのだ。逆にいうと自分たちで決めなければならない。

たまの週末、予定は無し。殺されそうなこともない。さて、どう過ごすか。友達に連絡してランチ?早めの海水浴、気になっていた美術館、最新のトレンドを求めて書店へ、新しい焼肉屋へ知人と、部屋の片づけ、重い腰を上げてピアノの練習。

 

なんというか、たまに、というかここ最近は酷くこういった選択に対してめんどくせえなと思う事が増えた。いっそ誰か命令してくれよという気持ち。誰かに命令されて、その環境に不平不満を行っている間は、理不尽に耐えているかわいそうな私、とアイデンティティを保てるのであろう。休日の過ごし方にもベターなものと悪いもの、という概念がはびこっているのだから、そりゃ疲れるわけである。

 

話題が散らかり始めた。この数年ホットな話題であるSNSとか、断捨離とか禅とかそういうことにもつながるのであろう。スティーブジョブズが私服を決まったものに制服化していることもこれに関わるだろう。自由とか、選択肢の豊富さというのは、加減によってわくわくもするし楽しくもなるし不愉快にもなる。

 

何事もバランス、結局個人のさじ加減。今はこう言ったフレーズにいたく共感する。快感とは苦痛を水で薄めたようなものである、というフレーズをマルキ・ド・サドが言っていたらしいが、実にその通りではないだろうか。結界師の中に出てくる「支配される喜び」というのもそういったものだろうな。寄生獣の一番最後の長谷川だか誰かに取り込まれているときのミギーの心情も同じだろう。

 

書いているとどんどん話題がずれていくな笑。もともとまとめるつもりがないというのと、技術力不足と、話したりない書き足りない、自分の思考もまとまっていない、といったところだろうか。