中高時代の旧友と

こんな時間を過ごすことが出来るのなら、ここまで生きてきた甲斐もあるというものだ、と思った。私は30年に満たない時間しか生きていない。しかし私にとってはこれまでが人生というものだ。振り返れば思い出せないくらいのイベントは既に培ってきた。思い出す想い出は、バイアスや先入観?が入っている。

大切なものは片手に余る。どうやったって、物理的に人の持つエネルギーには限りがある。大切にできるものには限りがある。数を増やすのであれば個々は浅くなるし、ここを深くしたいのであれば数を減らすしかない。

それは何にでも言えることだ。部屋の物の数もそうだし、人間関係の友人の数もそう。

人間関係。薄く浅く広げることは、大切なことだ。力の70%を大切な人に深く注いで、30%を残り膨大な人々と新たな人々に注ぐ。それは大切なことだと思う。何が深くなるか分からないからだ。きっとなんにでも言えることだが、新しいことに触れる習慣は大切だ。100個新しいものに触れたとして、99個はどうとでもいいものだが、1つは出会いの機会があってこんなに幸福なことはない、と思うものかもしれない。

しかしそれを知らなければ自分の中でほかの何かがその立場にあるはずだ。それを知らなかったからと言って幸福にケチがつくわけではない。

それを知りたいのは、知らないものがどこかにそんざいしているかもしれないという恐れ、自分の知らない「よいもの」があるかもしれなくて、それを他人が享受しているかもしれないという嫉妬のようなものかもしれない。

 

30年未満生きるだけで、絡みつくものは既に膨大だ。どうだ。生きやすい日々を送っているか?もう少し生きやすくなってほしいなあと思ったりします。もう少し心穏やかにと願ってしまいます。まだ君は20代だ。落ち着いて生きるには早い。せいぜい焦って困ってもがきたまえ。でも20代はとても貴重な時期と聞きます。楽しんで生きていたいです。それに、私が30歳になるまでにあらゆる方法で死んでしまう可能性だってあります。私は30歳や40歳になった時に、後ろを振り返って良かった良かったというために、彼らの過去を美しくするために生きているわけではありません。しかし君はきっと95%ぐらいの確率で30歳まで生存する。君が言うのは5%の確率の話だ。生命保険でよくわかっただろう。

 

旧友と、近況を話して、最後に会った時からの変化を報告して、今困っていること悩んでいることを話して、それについての考え方や解決策を提示してもらって。私も彼の話を聞いて意見を返して。同い年でかつてあれほど大切な時期を過ごした旧友が、今は異なる状況で全く違う経験をしていて。それに畏怖の念を感じて讃えて尊敬して。それでもなぜか時を共有するのが嬉しくて嬉しくて。好きに理由がないように、幸福にも理由はないのかもしれない。なぜこれほどに生きていて良かったと思うのか、この湧き上がる幸せは一体なんと説明できるのか、今の私では論理的に説明できない。ただ今は溢れる感謝の思いに頭を下げる。