6月

人と比べると一発で不幸になるとはよく言ったもので。同僚が知らぬところで国際学会に提出し審査を通過したと聞くと、普段の私の日々は何だったのであろうと思ってしまう。そこから考える。

情けなくなるほど落ち着きがない。自信がなくそわそわしている。何をすべきか分からない、やるべきことが終わっているのか分からない。右往左往にエネルギーを持っていかれてくらびれて現実逃避にエネルギーを使い始める。エネルギータンクが空になるころに時間制限が来て漏れや抜けが次々と見つかる。

ADHDだなと思う。今更。周囲にADHDが多いなとは思うけど。それで一極集中で特定の分野で高得点をたたき出していた彼らは、ほかのことを削ぎ落した結果なんだろうか。

あの先輩は国際学会に毎年提出して毎年国際学会に行っていた。その経験は蓄積されてくるし得難いものとなる。例えば俺は留学に行った。だから俺がご立派な人間かと言われたら別にそういうわけではない。数か月の留学がどの程度影響しているのかと言われると定量化はできない。でもあれがなければ就職先も違っていただろうし、英語を話すときの心持は違ったし、ふとした話でああだから英語そんなにしゃべれるのねという会話にはならない。経験は静かにしかし確実に降り積もるものだ。経験に限らず現実は、というべきな気がするが。

やったことは必ず雪の用に降り積もる。

やったことと同じぐらい、やらなかったことを誇りに思いたいというフレーズを聞いて、救われる気持ちもあるし、はっとすることもある。余計なこと、無駄を削ぐというのはすべきことをするのと同じぐらい大切なことだ。余計なことをしていたと気が付くのはデッドラインが来て時だ。一番最初の話に戻る。締め切りがきたときに、あれ?一番欲しいものを手に入れる行動をなんにもとってなかったぞ??もう時間締め切りだぞ??あれ??なんでこうなってるの?何してたの?となる。アホにもほどがあると思うけど死ぬ予定を知らされたときに多くの人が感じるのはそれだ。だから死にたくないとなるのだ。やりたいことが終わってなくてまだ時間が足りないのではない、なんかよく分かんないけどまだやらなくちゃいけないことが終わってないような気がするから死んじゃ困る気がするから死にたくないのだ。浅はかにもほどがある、そんな人間にロスタイムを与える必要はない。

そんな愛おしく可愛い人を慰めるものはたくさんあるから、一時的に動揺しても結果は大丈夫だ。哀れで愚かな人間。なんて愛おしい生き物。慰めと許しはきっと得られる。でも情けなさすぎる。よしよししてもらう前にやってみたいプライドは幾つかあったはずだ。そして幾つかを果たした人間にだけ見える次の課題があるのだ。行ったことのある人間しか見えない景色がある。外に出ないと棒に当たらない。勘違いしてくれるな。きれいな景色が見たいのではない。周りが綺麗と言っていても綺麗と思えないことの方が多い。本当に綺麗なものは毎日見ていたものだと回帰してしまう。世の中が進めば進むほどレベルアップしていくものではないことは分かっている。羨んでいるものになれたとしても、数か月後には文句を言って死にたくなるのは目に見えている。ただ、外に出た人間にだけ元居た場所が家だったとわかるのだ。離れた人間にだけさっきまでいた場所が好きだったか嫌いだったかわかる。移動した人間だけがそこが自分が好きなのか嫌いなのかが分かる。旅行に行ってわかるのは旅行先の好き嫌いと自宅の好き嫌いだ。

大切なものの本当の大切さは確かに無くして初めてわかるのかもしれない。いつかは無くすのかもしれない。でもその日を一日でも遅らせるように、もう馬鹿で愚かなのは諦めているから、せめてもう一日でもお利口さんでいられるように自省したいのだ。

なくなってからオナニーの様に感謝して謝罪する分を少しでも少なく、直接伝わる間に思い出しては忘れ、忘れては思い出して。