行動の理由

私は元々ロマンチックな考え方が好きである一方、そんなことはないという冷めたものの見方をする習慣があった。ロマンチックは生まれつきのものなのか、幼少期からの絵本や小説といった物語に触れ続けた影響かもしれない。

 

小説を読む人間が意外と身の回りにいないことに驚く。「どうして小説を読むの?何の役に立つの?」という質問には最初驚きを覚えた。漫画を読む理由と同じである。映画とかアニメとか、ゲームをする理由とも同じはずだ。面白いから、楽しいからである。感動するから。感情の高ぶりを楽しむものだ。

余計なお世話であろうが、役に立つ立たないの話で言うのなら、別にあなたも何の役に立ちはしまい。何かの機能をはたして変化は起こすだろうが、役に立った立たないという指標はあなたのさじ加減だ。別に立ってくれても立ってくれなくても構わない。強いて言うなら勘違いをしていれば俗にいうイタい。

 

どうでもいいことに言及した。不必要に攻撃的な発言をする必要はないが、この数年現実社会で面と向かってこういったある種の本音を吐露する場所がなくなったために、こういった場所を使っているわけだ。

 

さて、その生き物、とりわけ人間に対して冷めた見方をしていたことに生物学は手助けをしてくれたというか、拍車をかけたというか、皮肉に作用したというか。好意的に見るか悲観的に見るかは個々人のさじ加減として。

人間が何かをする、しないの理由はかなりシンプルだと思っている。楽だから、そちらの方が気持ちいいから、都合がいいから、自分に利益があるから。大抵はこんなものだと思う。人々が喧嘩をする時の理由のほとんどは寂しいから、悲しいから、裏切られた気がしたから、自分の価値観の再考を無理強いされたから、ではないかと思っている。

 

非常にしょうもないことだが、食のコントロールが出来ない。急に文章の質が落ちるのを感じるが、私には大問題だ。理屈をこねて食べ過ぎによる不利益を散々言い聞かせているが、目の前の血糖値上昇にいとも簡単に屈服する。一日に数回だろうか。一日に数回屈服すれば、目標不達成には十分な回数だ。

 

つまり私は都合よく自分を許しているという事だろうか。つまりよく出来ていると思っている論理部分もそもそも甘い場合。もしくは生物的に思考回路や習慣、脳の報酬回路が一般から大きく外れてバグっている。後者が大きい気がしてきている。こうなると対処法は、とりあえず負荷のかかる行動をとることで、体に快感を感じさせ、脳に直接こちらの手段の方が気持ちいいという事を感じさせるしかない。言って分からないなら殴るしかないというわけだ。