亡くなり方について

 職業柄、人の死にはよく出会う。「俺はピンピンコロリでいくからタバコ吸うよ、へへっ」と言ってくださる。

 タバコを吸うと、ピンピンコロリと死ねないパターンが増えますという知識はたまに伝える。肺とはスポンジのようなもので、タバコでゆっくり時間をかけて穴まみれにしていくのだから、昨日セーフで今日アウトとはならない。

 無しよりのあり、ギリアウト、普通にアウト、ちょっとアウト、余裕でアウト、マジアウトのグラデーションで生きていく感じだ。これが徐々に、歩くと苦しい、別に平気、調子よければ平気、ちょっときつめ、最近きつい、風邪ひいたらしんどい、外行かなければ平気、痛くなければ平気、トイレは平気、薬使うほどではないぐらいの苦しさ、静かにしてれば苦しくない、のグラデーションになっていく。

 それを分かってくれていれば、命は基本的にはその人のものなので、そのように使ってくれても構わない。強く叩くと痛いですよ、というぐらいの知識は伝えておきたいなと思う。たまに話をした影響でタバコをやめる人もいる。

 タバコ以外の楽しみがない人もいる。食べること以外の楽しみがない人もいる。そんだけ太ってると病気にもなりやすいし指は腐るし失明はするし腎臓は痛むし病院に行かざるを得ない状況が増え続けるけど他に生きている理由が見つからないから今日も食べる。さっきも食べる。今も食べる。

 自分の将来の死に方を考えることは死を連想させるから不謹慎といわれると、太陽が東から登るのはモラルに反していると言われたような気持になる。そんなこと言われましても、という気分。死ぬなんて縁起でもない、しかし絶対に絶対にいつか死ぬ。どうであれば不謹慎ではないのか。人が死ぬと全部不謹慎とは言わないだろう。

 なんだかんだ肥満から抜け出せない彼は心筋梗塞で早めに死ぬなら悲しめば済むが、脳梗塞で10年介護コースに突入すると、だれが面倒を見て金銭的負担はどうするのか相当あやしい。プライドが高くて気品高くて品の良くてヒステリックで抑うつ気味な彼女は膝を使いすり減らして歩けなくなったときに元気いっぱいな悲壮感を訴えると思う。

 別にそれでもかまわない。本人にその覚悟があれば。それを理解しようとせずになあなあに進んでいるのなら溜飲が下りない。そりゃそうでしょうと思う。こうなると分かっていたのに対策を打たなかったのならその尻拭いというか対策はしたくない。頭下げてお願いしろ。痛いと思わなかったと思って叩くのは質が悪いでしょう。

 死に方をある程度選択できるなんて科学は本当にすごい。感染症にかかればアウト、認知症のおじいちゃんの車にひかれたらアウト、10万人に一人ぐらいの病気1000種類ぐらい全部去年も今年も来年も再来年も罹患しなければセーフ。

 

「どうして人というのは
こんなにも忘れっぽいんでしょう
こんな風にたくさんの人生の最後を見送っているのに
どうして もっともっと
もっと切迫感を持って生きられないんでしょう
「夢が叶った」幸運
命があって明日も生きて対戦できる幸せ
しびれる程の幸運が積み重なって生まれた
奇跡のような「今」だというのに」