9月

 会社の同期の結婚式に参加した。コロナの影響で延期や中止があいつぐなか、いろいろあり開催された結婚式である。綺麗なホテルで昔の同期と顔を合わせながら、なかば同窓会のような雰囲気の結婚式はひさしぶりだった。緊張とそわそわから始まったが、ほぐれるにつれ数年前の雰囲気がよみがえってたのしかった。

 各人の席には名前の印刷されたメッセージカードがおいてある。これを書くのは大変だっただろうなと思うし、新郎がこういうのをせっせと書くタイプではないためほほえましいなとありがたかった。

 メッセージには、仕事で思い悩んでいるときにいつも話を聞いてくれて本当に感謝している、と書かれていた。新郎は明るくて派手で酒を飲んで大暴れするようなやつである。そういう人間がこういうしめっぽいメッセージを記載するのは、持ち前の社交性でおれの喜びそうな文章を書こうと思ったのかもしれないが、不意を突かれてはっとした。

 この前の帰省のときに、母親から「昔からよく人の相談にのってるもんねえ」と言われたことを思い出した。母親は「周囲の人から相談を持ち掛けられて頼られる立派な人物」を夢見ているだろうとも思ったから、さらりと流したが、まあたしかに楽しいハッピーな話よりは、現実的な苦労話を聞く機会は多い。

 いろいろはしょると、自分はあんまり楽しい話を共有してもりあがるのが得意じゃないんだと思う。正確には、好きだとか、楽しいと思えることが、多くないのか、ポジティブなことへの表現がおさえめなのか。

 少なくとも、結婚式で久しぶりに顔を合わせる同期に「いやマジみんな久々あつまってすげえいいよな、やっぱこの同期めっちゃいいわ。サイコー!!!」という盛り上がりかたはしっくりこない。コーヒーか甘いものでも食べながら「いやあ・・・、安心するわあ。今後もよろしくね」と言われる方が「ほんとそれ」と乗りやすい。

 どうして楽しい幸せなポジティブな話より、もどかしく苦心するような話に共感する方が得意、もはや好みなのだろうかと考えた。きっと、自分の人生は、楽しくっておかしくってとにかく人と共有して盛り上がるより、どうしようもなく、もどかしくて骨が折れた経験や時間の方が強く印象に残っているからなのだと思う。

 え?だって、人生には、楽しい時間よりも、悲しくて思い通りにならない時間のほうがはるかに長いじゃない・・・と思いかけて、静かに目頭が熱くなった。別に思い通りにならないことは悲しいことではないというか、こうやって(コロナで厳選するほどの)同期の結婚式に呼んでもらえてるような人生なのだから、悲しいことばっかりってわけはない。絶対そのはずなんだけど、今の自分に身についている能力は、自分がこれまでの半生で生きていくために最優先で身につける必要があった能力は、人生には悲しいことはいっぱいあるけど、それもそれで愛おしいというか、思い通りにならないのを楽しむのが注目ポイントというか、そういう風に考えられることだったのだと思う。

 さて。まあ実際、酒を飲んで、よっぱらっていく同期を見ながら、とにかくはしゃぐ時間を存分に楽しめないのはちょっと損してるなとは昔から思う。俺のどんぴしゃりは、とにかく話して話して情報を共有することなんだけどな、と思ってしまう。いや、でも俺もはしゃぐのよ。それが酒とか大勢じゃないってだけで。

 職場のデスクでたまたま帰り間際に顔を合わせて、かばんを片付けながら始めた話がはずんで、コンビニによって詳細を聞いたり。昼ごはんを食べて適当に買い物しながら話す世間話がまさに興味を持つポイントだったり、LINEで数時間おきにすすむ話が楽しかったり。うおおみんな頑張ってんだなーとか、こいつもニコニコしてるくせして結構苦悶してんだねえとか、そういうところに、琴線があるのさ。ギャップ萌えだよ、ありがちでしょ。豪気な男の仕事の愚痴とか、強気な女のふとした弱音とか、お人よしな先輩が珍しくムキになってる姿とか、きゅんとするでしょ。あるあるですよ。

 さ、気持ちも落ち着いたし。二次会だ。