親の介護

介護に関する重たい印象はなんだろう。負の印象をいだくのは、下記に記載することを受容できていないためだろうか。
(良い)親が子をかばうとき、その人間が持てる最大限の力を発揮しようとするだろう。人生で最も献身的に、痛々しいほど自己犠牲的に子どもに尽くすであろう。わが身がズタズタになろうとコスパがいくら悪かろうと子どものためにその時間と労力を割くであろう。その姿はその人間の最大に魅力的な姿であろう。その場合、その親は子どもの目にとてもかっこよく立派に映るだろう(実際立派である)。輝く立派な大人。完璧で立派な大人。それが時を経て、自分が社会人として働き始めるころには、親は親としての役割をするために背伸びをして気を張って力んでいたと知る。自分の前では自分を守るために背伸びをして時には無理をして庇ってくれていたことを知る。自分が幸運にも成長して、もう守る必要がないほど成長した時、親は肩の力を抜く、元の姿をさらけだす。時間がたつごとに取り繕うこともできなくなってゆく。出来ることが少なくなっていく。それを見ている時間が悲しいとしたら。私が面倒を見てもらった分今度は私がこの人の面倒をみなきゃと。
もらった分返さなきゃ、という等価交換の論理はあまり適応すべきではないのではないかと思う。その方がつらいと思うから。その人生を懸命に駆け抜けるその様、駆け抜ける横に寄り添うことができる幸運。あなたが走っていく横に流れ星のように。愛おしいと思うあなたの視界の中を流れるように。この世のなにもかも刹那でなにも確かではないことの恐怖と悲しさ。だからこそ美しいと思えるメカニズム。
後輩ってのは、たまにとてつもなく愛おしくなる。俺の子どもなんじゃねえかと思うほど可愛く思う瞬間がある。俺の何を見てそんな全幅の信頼を一瞬でも置いたの?となる。

そう、東京にいると、社会と繋がっているような気がするのかもしれない。テレビで放送している内容は「行こうと思えば行ける」ところの話題だ。テレビの世界もネットの世界も日常でアクセスできる範囲も同じ。しかし、意外とやっていることは地方でもできることじゃないのか?というところは重要だ。どういう状態であれば社会と繋がっていると言えるか?